サッカーとは

1チームは基本11人。少なくとも7人以上いれば試合ができる。2チームが敵味方となり、1個のボールを主に足を使って移動させ、自チームのゴールを守りつつ、相手チームのゴールへと運ぶ。相手ゴールにボールが入ると得点が1加算される。試合は制限時間の満了によって終了し、時間内により多くの得点を記録したチームが勝ちとなる。

足を使うことが基本であるが、手と腕以外の部分であれば使っても問題ない。手や腕でボールを故意に扱った場合は反則となる。各チームには1人だけ、ゴールキーパーというゴールを守る特別な役割のプレーヤーを置くことが定められている。ゴールキーパーだけが、自ゴール前の一定の領域(ペナルティエリア)内に限り、手を含む全身でボールを扱うことを許される。


起源

人類としての歴史が始まった頃から人類はある種のフットボールを行っていたと思われる。新石器時代(紀元前約1万年前)の現中国地域の地層から石の球が発見され、中国マスコミはこれをサッカーの起源として報道したが、蹴った証拠は見つかっていない。南米ではアマゾンの熱帯雨林からゴムが採れた為、早くからボールを蹴る競技が行われていた。パタゴニアやアンデスのインディオ文明からは、様々なボールや、ボールを蹴る競技の証拠が見つかっている(紀元前1500年チリのピリマタム、パタゴニアのチョエカ、紀元前800年メキシコのマヤ文明のポク・タ・ポク)。

足でボールを蹴る遊戯は、考古学的には、古代エジプト古代ギリシャ古代ローマから足でボールを蹴る人物のレリーフが発見されている(紀元前200年古代ギリシャのエピスキロス、紀元前200年古代ローマのパルパツウム)。中国では戦国時代に足で鞠を蹴りあう蹴鞠(しゅうきく)という遊戯が存在したことが、前漢末(紀元前1世紀)の「戦国策」に見える。

なお、FIFAのホームページでは最も古い形態のサッカーとして中国の蹴鞠を載せている。

文献や出土遺物でなく、現代まで人により伝承されているものとしては、中国の蹴鞠(しゅうきく)が日本に伝わり、独自の発達を遂げた日本の平安京の「蹴鞠(けまり)」が最古である。

イタリア

17世紀、フィレンツェで行われたカルチョ・フィオレンティノの様子

15世紀イタリアでも、イングランドのフットボールに良く似た「カルチョ」(Calcio) という遊びが存在した。この遊びがイングランドやフランスと決定的に異なる点は、農村地帯の広い空間でなく、都市の限られた空間である広場で行われていたことである。そのため自ずとフィールドが限定され、参加人数も限られたものとなり、簡単な役割や作戦も決められていたようで、これは現在のフットボールにかなり近い存在であったと言える。


サッカーの確立

フットボールやカルチョのような遊びは近世末までヨーロッパ各地で行われていた。イングランドで行われていたものについては、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われ、時に死者を出すことすらあったため、1314年ロンドン市長エドワード2世の名で禁止令を出して以降、1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって禁止令が出されている。16世紀に宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王の庇護のもとに試合が行われるようになった。

ところが18世紀中頃から19世紀にかけて勃興した産業革命によって、大量の工場労働者を生み出すために農村の共同体が崩壊させられると次第に廃れていった。

農村の代わりにフットボールをレクリエーションとして受け入れ、近代的な「スポーツ」として成立させたのがイングランドにおけるパブリックスクールである。パブリックスクールでも当初は農村での遊びに近い形態で行われていたが、パブリックスクールは紳士を育成するためのものであるため、乱暴なプレーは禁止され、次第に子弟教育の一環のスポーツとして体裁が整えられて行った。この時点でのフットボールは学校毎にルールが異なり、他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合いが持たれていた。しかし、これでは手間もかかる上、ルールに対する理解に齟齬を来たすため、しばしばルール統一を目指した協議が行われた。そのため共通ルールが1846年ケンブリッジ大学で立案された(ケンブリッジルール)。これが現在のサッカーのルールの基になった。

こうして1850年代までにはイートン・カレッジを中心とする「手を使うことを禁止するルール」と、ラグビー校を中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。長きにわたる対立を解消しようと、1863年10月26日イギリスロンドンにある居酒屋フリーメイソンズ・タバーンに、ロンドンの12(11とする資料もある)のクラブがフットボール協会を設立する為に集まり、最終的なルール統一を目指した協議が開催された。参加したクラブは、バーンズ、ブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセーダーズ、クリスタル・パレス、フォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトンなどである。この内、一部のクラブの代表は、ボールを持って走ること、ボールを運んでいる相手にハッキング(すねをけること)、トリッピング(引っ掛けてつまずかせること)およびホールディング(おさえること)を行うことが認められなくなったことに合意できず、この協議は物別れに終わる。ラグビー校の代表及びブラックヒースが席を立ち、遂に2つの競技(サッカーとラグビー)の決別が図られたのである。これこそがサッカー誕生の瞬間であった。「手を使うことを禁止する」ルールを主張していたパブリックスクールの代表者らによって、フットボール・アソシエーションFootball Association 略称FA)が設立され、こうしたフットボールを協会式フットボール Association Football と呼ぶようになった。その省略形 soc に「人」を意味する -er をつけたものが soccer の語源であり、1880年代頃から使われているといわれている。その後、1863年12月8日までに6回のミーティングを持って、この日14条から成る世界で最初のサッカー統一ルールが誕生した。このサッカー統一ルールでの世界初の試合(つまり世界初のサッカーの試合)は、1863年12月19日にイングランドで行われたリッチモンド対バーンズ戦で、0-0の引き分けだった。 但し、サッカーが誕生した初期の頃は、ボールを手でキャッチすることを禁止しなかったりなどサッカーとラグビーの区別は、明確ではなかった。その後、サッカーの統一ルールが浸透していき、ラグビーとは異なる競技としてのサッカーが確立されていった。